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食育に科学とロマンを

その37:縁あって家族

 
 

祖先を供養するお盆が来ると、キュウリやナスに刺した割り箸を足に見立てたキュウリの馬とナスの牛が仏壇の前に置かれます。

食べもので工作された「キュウリ馬」と「ナス牛」を見て、子どもが興味をもたないはずはありません。幼い私はためらいもなく、「キュウリ馬」と「ナス牛」を手に取り、激しく2頭をぶつけながらボロボロになるまで闘わせました。そして、箸がキュウリとナスの胴体を突き抜けた見るも無残な姿の2頭を、何事もなかったかのように仏壇の前に戻しておきました。見つかった時、こっぴどく叱られたのは言うまでもありません。

大人になった今では、故人のたましいの乗り物の「キュウリ馬」と「ナス牛」にずいぶんなことをした、と、ちょっとだけ反省しています。野蛮に育った娘を先祖に見られた両親は、恥ずかしかったことでしょう。「ゆっくりくつろいでね」、「久しぶりに一緒に食べられるね」と、たくさんの食べもので迎えたものの、「早くお帰りください」と、お願いしたかっただろうと思います。

ところで、お盆中は故人との食の思い出もたくさん語られます。食べものの好みに始まり、おいしいものを口にしてニコニコした瞬間、そこにあった楽しい会話、はたまた食の躾など、こころのどこかに眠っていた食卓の光景が甦ります。そんな思い出話で盛り上がり、また楽しい食卓がつくられるのですから、故人のたましいを迎えるのは嬉しいことです。故人との思い出は、淡々とした日々の食卓にも綴られていたのです。

縁あって家族となった人たちと交わされる「いただきます」と「ごちそうさま」には限りがあります。当たり前のようにくり返される食卓は永遠ではなく、同じ食卓も二度とはないのです。このことが何かをきっかけに実感された時、いつもと変らぬ何でもない食卓がとても大切なものに思えてきます。そんな貴重な食卓をあと何回ともにできるのか、それは誰にもわかりません。だからこそ、何でもない食卓の光景さえも深くこころに刻んで欲しいのです。


土澤 明子 2008年8月

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