そして、この一連の動きを支えている、縁の下の力持ちが、舌、歯、潤滑剤としての唾液です。口の中がからからに乾いているとうまく咀嚼出来ません。きな粉をつけ過ぎた餅を口いっぱいに詰め込むと、うまく噛めないのがそれです。この唾液の多くは筋肉や、舌の動きにより、しぼり出されて来るので、しっかりと咀嚼をしないと十分な唾液は出て来ません。やわらかい食べ物ばかり食べていたり、しっかりと咀嚼する習慣がないと、徐々に唾液腺の活動が低下し、唾液の生産量も減ってしまいます。虫歯を放置していたり、歯の抜けてしまったところを放置している場合も、同様の事が言えます。
ところで皆さんは朝など、急いで食事をしている時やテレビを見ながら横を向いて食事をしているときに、自分でがぶっと舌や頬を噛んでしまったことはありませんか?
私も昨年の春頃、そのことで非常に痛い思いをしました。奥歯の樹脂の詰め物が、フライドチキンを食べている際に割れてしまい、再治療のため仮の詰め物をしていたときの話です。土曜日の診療を終えて、自宅で夕食を食べている時にその仮詰めがはずれてしまいました。自宅開業ではないので、いくら歯科医だといっても道具がなければ何も出来ません。状況はわかっているので、食べにくいのですが、気をつけて食事をして事なきを得ました。
翌朝の事です。”早めに出勤し衛生士さんに仮詰めをしてもらおう!”と、少し気持ちがあせっていました。ロールパンをがぶっとかじったとたん、何かいつもと違った妙な弾力を歯に感じました。うっ!その時はもう、既におそし。自分では一瞬、噛む力を弱める気はあったのですが、一気に自分の舌の端をマスチィケート?してしまいました。仮詰めの外れた部分が尖っていたので、かなりの深さで舌を噛んでしまったのです。その痛さときたらたまりません。口の中はパンとともに血だらけ、あわてて止血して見てみると、はじがザックリと切れてしまっています。ところが何か喋ろうとするたびに、舌が歯にあたり、痛みとともに、再び傷口が開いて出血してしまうのです。急いで医院に向かい自ら処置をしました。その日は喋ると痛いので口数が少なく、あまり説明をしてくれない、すごく感じの悪い歯医者になっていたかもしれません。お許しください。
でもその日から、患者さんの仮詰めはしっかりと、朝は気持と時間に余裕を持って、しっかりと咀嚼して食べるよう気をつけるようになりました。
咀嚼している間、脳は、視覚や温冷感、味覚、嗅覚、歯で感じる圧力といった周囲の感覚器官からのデータを常にフィードバックさせています。筋肉の動き、噛む力、舌の動き、唾液腺などの働きをコントロールして、舌などを噛むこと無く食べられるようにしています。あの時の私にはこれが出来なかったのです。咀嚼は非常に多くの要素を同時にすばやくコントロールして初めて成り立つ、大変複雑で高度な運動です。ですからこの様な高度な運動の繰り返しは、脳を良く働かすこととなり、脳全体の機能や反射神経を高めるトレーニングとなります。
一方では、しっかりと咀嚼して顔面、頭部の筋肉を積極的に動かすことにより、周囲の血管が断続的に圧迫されるので、毛細血管の血流が促進され、脳および周囲の細胞への酸素、糖、などのエネルギー供給が良くなります。ですから、しっかりと歩くように、しっかりと咀嚼することも健全な肉体や、精神を作り上げるための非常に重要な要素なのです。
お料理を作る際、美味しさや栄養面だけでなく、食する人が咀嚼を楽しめるような食材を加えるといった考慮も必要ではないかと思います。
ゆっくりと楽しく噛んで自然に健康な体を作ってゆきましょう。
2005年3月 堀 滋